伝説
伝説のなかでもっとも胸を締めつける場面は、機織り機の前で起こりました。その日、林黙娘が布を織っていると、突然目を閉じて機に伏し、まるで遠い場所へ心を飛ばしたような様子になりました。ちょうどそのとき海では嵐が荒れ、父と兄の船が危機に瀕していたのです。黙娘は霊の力で海へ出て、片手で父をつかみ、歯で兄の衣をくわえて救おうとしました。ところが気を失った娘を案じた母が、慌てて彼女を揺り起こしてしまいます。黙娘が口を開いた瞬間、くわえていた兄は波間へ沈んでいきました。父は無事に帰りましたが、兄はついに戻りませんでした。
林黙娘は北宋の建隆元年(九六〇年)に生まれ、幼いころから聡明で、八歳で経書を読み、長く海辺に立って天候を読み、漁船を嵐から導いたと伝えられます。雍熙四年(九八七年)、二十八歳の彼女は湄洲島の峰の頂で坐化(ざか/安らかに世を去ること)しました。里の人々はその徳を慕って廟を建て、歴代の朝廷も「夫人」から「天妃」、さらに「天后」「天上聖母」へと次々に位を贈っていきました。兄一人を救えなかった漁師の娘が、やがて華人の海の世界すべてを守る女神となったのです。
